吉本せい(吉本興業創業者)明治の起業家は女性が多い?その理由と人物像【わろてんか】

こんにちは! takuです。

いよいよ10月2日(月)〜

始まる朝のNHK連続テレビ小説

【わろてんか】

主人公は今注目の女優

葵わかなさんです。

出典: こんにちは!takuです。 いよいよ10月2日(月)〜 NHK連続テレビ小説 【わろてんか】が 放送されますね! 楽...

葵わかなさんが演じる

藤岡てんのモデルと

なったのが、

吉本興業創業者の

吉本せい。

吉本興業って、創業者は

女性だったんですね!

今連続テレビ小説や

大河ドラマは女性にフォーカス

することが多いですね。

明治あたりの時代に、

結構有名な女性起業家

が多いですよね。

あれってなんでなんでしょう。

今日はその辺りが気になったので、

調べてみます。

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1.吉本せいという人物について

出典:http://www.yoshimoto.co.jp/

吉本せい (旧姓:林 せい)

1889年12月5日に

兵庫県明石市東本町で、

林豊次郎の3女として生まれました。

せいの実家である林家は、

明石藩松平家の下級藩士の家系です。

明治維新を迎えて帰商し、

父親は綿や麻の着物を扱う

着物屋「紀伊國屋」を営んでました。

吉本せいが生まれたあと、

明治時代の中頃に大阪府大阪市北区

へと住所を写し、天神橋5丁目で

米穀商、金融業を営むようになります。

父親も実業家だったようですね。

しかも吉本せいは非常に成績が優秀で、

進学を希望していたにも関わらず、

父親の強い意向により、進学せずに

家業を手伝っていたんだとか。

弟、林政之助の面倒を見たり、

家業から、家事全般を見事に

こなしていたので、

父親が自分の娘に惚れこんで、

ずっと手元に置いておきたいと

思わせるほどに、せいの活躍ぶり

は目立っていたそうです。

けれども母親の反対により、

その当時の船場の古い風習に習って

15歳の時に、大阪でも有数の

商家に上女中として奉公に出ます。

奉公先から帰ってきたせいは、

実家の米穀屋の経営を手伝った。

せいの商才はこの時から、

目を見張るものがあった。

ちょうどその頃(19歳)の時

吉本家(貿易業)に嫁ぐことになります。

せいの才覚に目をつけた吉本家の

戦略的な縁談の持ち込みであったらしいです。

吉本吉次郎(後の吉本泰三)が夫です。

しかし、吉本家には問題があったそうで、

吉本吉次郎は、血の繋がりのない

母親からのいじめや、

父親の吉本吉兵衛への不信感から、

家業を継ぐことはなく、

芸人道楽に走っていたそうです。

結婚してからも、

吉次郎は芸人遊びをやめなかった。

それどころか、一座の興行主として

たび巡業に出るほどに「芸」に

熱をあげていたそうです。

旅支度の度に借金を

膨らませる有様で、

ついに、吉本家の家業を

廃業に追い込みます。

お金もない中で、

芸人遊びをやめない吉次郎が、

経営不信の寄席の娯楽場を、

せいに無断で買い取るという

契約をしてきた。

不人気だった、その1件の寄席を

吉本せいは、自らの手腕で、瞬く間に

いくつもの寄席を買い上げるほどに

躍進を続け、吉本興行合名会社を設立します。

1912年、吉本せいが若干23歳の時のことです。

その躍進のきっかけとなったのが、「漫才」でした。

その当時の寄席というのは、ほとんどが落語でしたが、

そこにせいは「漫才」という新分野を立ち上げました。

それ以外にも、ものまね芸、音曲、曲芸などの諸芸を

取り入れ、瞬く間に注目を集め、集客に成功します。

「漫才」ブームは全国を巻き込み、

戦後、1948年には吉本興行株式会社として、

いち早く株式会社化を実現しています。

これも、妻の吉本せいの手腕によるもので、

夫吉次郎は若く37歳の時になくなり、

その後はせいの弟林政之助が片腕となって

吉本興業を支えました。

吉本せいが「笑い」をビジネスにできた

理由として、彼女が誰よりも「笑い」を

愛していたからだと

語られることが多いそうです。

1950年、61歳で吉本せいは

この地上の生涯を終えます。

寄席が賑わいを見せていた明治の終わりから、

昭和初期にかけての大阪。

激動の時代の変化に伴って、

落語中心の寄席は、やがて、

せいのアイデアによって物真似や、

音曲、曲芸といったさまざまな笑いを

吸収しながら、ついに全く新しい笑芸、

漫才が誕生したわけなんですが、

そんな笑いの世界を、愛していたからこそ、

吉本せいはこの吉本の礎を築き

発展させ、笑いを豊かな感性で育むことが

できたのでしょうね。

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2.明治の女性起業家 ”時代を牽引した女性”

”起業家”とは違いますが、

男尊女卑の時代が色濃い時代に、

自身の生き方を貫いた影響力をもった

人物が何人かいます。

有名なところでは、

新島八重、広岡浅子

あたりではないでしょうか。

この二人の人物両方とも、

NHKで取り上げられていますね。

新島八重【八重の桜】

広岡浅子【あさが来た】

ですね。

出典:http://www.yae-mottoshiritai.jp/

新島八重(1845〜1932)

は幕末のジャンヌ・ダルクと

呼ばれ、会津藩として、

鳥羽・伏見戦いの際には

鉄砲を持って、勇ましく戦いました。

そして、同志社を創設した新島襄の妻として

明治の新女性として、

女性教育者として活躍します。

京都で初めてのキリスト教式の

結婚式をあげ、

男女平等を望み、

時代をリードする八重の生き方は、

「サムライ・ウーマン」と呼ばれる

にふさわしいものでした。

新島襄の死後は、日本赤十字社の社員となり、

日清戦争、日露戦争時は

傷病兵の看護を献身的に行い、

その後は社会福祉に尽力します。

その生き方は、「日本のナイチンゲール」

と称されています。

出典:http://kajimaya-asako.daido-life.co.jp/

広岡浅子(1849-1919)は

豪商加島屋の次男広岡信五郎に嫁ぎ、

夫に代わり、加島屋を

「炭鉱ビジネス」によって立て直し、

明治維新を乗り越え、日本女子大学を設立し

女性教育に尽力します。

また大道生命の創業者の一人

としても有名です。

女性実業家、女性教育者、

女性社会運動家として

明治、大正の時代を牽引します。

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3.明治の女性起業家が多い理由 (名言集)

いろいろ調べましたが、

他の時代と比べて、

特別女性実業家が「多い」

というわけではなく、

影響力を持った

力強い女性として

時代を牽引した勇敢な人物

「複数」いるという理解のほうが

正しいと言えるのかもしれませんね。

吉本せいは、この新島八重や

広岡浅子とは少し、40年ほど

生まれた時代は遅いのですが、

おそらくその存在はよく

知っていたと思います。

活動する分野は違えど、

男尊女卑の時代に、

勇ましく戦い活躍する

先輩女性の背中を見ながら、

絶えずチャレンジしていたと

予想できますね。

吉本せいはこんな言葉を残しています。

「時代を先取りして、

誰の意見でも有り難く聴くこと。

実行する、せんは、こちらが決めればよろし」。

引用:http://anincline.com/

新島八重の名言はこれです。

どんなに波が荒く強くても、心の岩は決して動きません。

私が好むのは勇ましい壮者の血のような「赤色」です。

引用:http://medicines.aquaorbis.net/

広岡浅子の名言はこちら

成功の秘訣は、その人に情熱があるかどうかにかかっている

これまでに倒産したとこは負けや。他人のせいやない。

時代に乗り遅れて手も打てなんだのやろ。商いは、自力で勝つしかない

どうせ死ぬのなら、ひと戦してからや

遺言はしない。ふだん言っていることがすべて遺言

引用:http://meigen.keiziban-jp.com/

すごいですね(汗

この女性たちに共通するのは、

確固たる決意と揺るぎない信念を持ち、

目標に向かって、まっしぐらに突き進む

メンタルの強さにあると思いますね。

時代に合わせる、人の顔色を伺う

なんて発想はありません。

自分がその時代のうねりの中で

どう向き合って、対局して行くか。

常にファイティングポーズ、

勝負師精神を忘れない

といったところでしょうか。

いつの時代でも、性別なんて関係ない。

自分を信じ、勇気を持って

一歩踏み出す者が道を切り開いて

行くんですね。

そして、女性にとっては厳しい

ものすごい時代の中で結果を出していった

この女性たちは、

“男性よりも勇敢だ”と称さずには折れない

尊敬に値する人々ですね。

まとめ

ということで、今回は

1.吉本せいという人物について

2.明治の女性起業家”時代を牽引した女性”

3.明治の女性起業家が多い理由(名言)

について記事にしました。

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