こんにちは。Takuです。
12月9日(土) 22時00分~放送予定の
【SWITCHインタビュー】に、
世界の紛争地で平和維持活動をしている
伊勢崎賢治さんが登場します。
伊勢崎賢治さんは、 「紛争解決請負人」と
呼ばれているそうで、そんな肩書きを持つ
方は今まで聞いたことがありませんでしたので、
非常に気になりました。
紛争解決請負人とは、具体的には
一体どのような仕事内容なのか、
どのような経緯を経て、
その職業にたどり着いたのか、
危険も伴うそのような職業に家族は
反対していないのかなどを
調べようと思います。
また、伊勢崎賢治さんは実は、
ジャズトランペット奏者であるということも
知りましたので、そのことについても
すこし触れてみたいと思います。
伊勢崎賢治さんの経歴
プロフィール
出典:http://www.jinzai-bank.net/
名前:伊勢崎賢治(いせざき けんじ)
生年月日:1957年7月6日
年齢:60歳
出身地:東京都
身長:不明
職業:紛争解決請負人、教授
大学:早稲田大学理工学部建築学科
伊勢崎さんは、東京生まれ東京育ち。
早稲田大学の理工学部建築学科ということですから、
非常に優秀な方だったんですね。
けれども、建築家を専門としていた方が
なぜ今のような職業に就くことになったのでしょうか。
実は、学生時代の若い頃、伊勢崎さんは
画家か音楽家になりたいという夢を
持っていたそうです。
けれども、芸術の分野で食っていくのは
難しいだろうということで、少し妥協して、
建築家になろうと考えていたようです。
優秀な方は、発想がシンプルなんですね。
それで、早稲田大学の建築学科に
入れるんだからすごいですね。
その当時、早稲田の建築学科は、
国際コンペに優勝したり、日本一
との呼び声も高い、技術面で非常に
優れていた学科だったそうです。
そんな中で、伊勢崎さんも、
大物建築家になることを夢見ていた
そうです。
けれども大学に入って、建築に失望
したそうです。その理由は、
島国なのに、1級建築師が多すぎる
公共建築物ばかり手がけても税金の無駄
住宅作家のデザインに資産価値を見出せない
などだそうです。
建築家という職業が、本当に社会の役に
立っているのかがだんだんわからなく
なってきたそうです。
そんな時、「都市計画」という学問に
出会い、そちらへ進路を変更しようと
考え、尊敬できる教授の元で、学び始めた
矢先に、その教授が病で死去してしまいます。
就職時期を伸ばし、惰性で大学院生活を
送っていたような卒業間近の時、偶然
大学の掲示板で インドの政府国費留学生募集
の案内を見つけたそうです。
当時、先進国や国内にしか目を向けていなかった
都市計画の学問を、途上国で活かす方法はないか
という動機から、留学を決意されたそうです。
じゃ、「インドに行ってみるか。」と軽い気持ちで
応募したところ、 政府費留学生試験を見事パスして
しまったそうです。
そしてインドに渡り、ボンベイ大学で、
「ソーシャルワーク」を学ばれたそうです。
日本で「ソーシャルワーク」と聞くと、
介護や医療のイメージが強いのですが、
世界基準でのソーシャルワークという
分野は本来、もっと広義の意味を持つようです。
海外での、ソーシャルワークというと、
個人から社会政策までを網羅し、いわゆる
ソーシャルチェンジといって、 「社会を変える」
ことを目的する学問を指します。
ソーシャルワークスキルの内訳は、
人々を説得する方法
交渉の仕方
住民を横につなげる技術
話術で民衆を動かすテクニック
住民先導術
などがあります。
そういった意味で、都市計画の
ソーシャルワーキングを学んだ伊勢崎さん
は「世の中を変える」土台を学んでいた
ということになりますね。
そして、まさにインドといえば、「社会問題
の宝庫」ですから、 カースト制度 貧困問題
農村問題 スラム地域のケアなどの諸テーマ
において、伊勢崎さんは、
40万人のスラム住民組織を支援するNGOに
所属しながら、スラム街を拠点に住民運動を
指揮します。
この経験がもととなって、その後
アフリカ、インドネシア、中近東など
世界中で 学校設置、職業訓練などの教育事業、
診療所、病院設置などの医療事業、灌漑設備や
種子倍増などの農業事業など、貧困削減につながる
開発を手がけるベースになったんですね。
そういった特異な実績がかわれ、国連に所属しながら、
最終的には、 国家間の紛争解決請負人という、
唯一無二の職業の実践を積んでいった貴重な
人材として世界で活躍しています。
家族について
伊勢崎さんは、そのような、内戦などで、
命の危険に晒されるような、紛争の真っ只中
にいくわけですから、ご家族も心配される
ことでしょう。
伊勢崎さんのご家族については、
名前や、画像は残念ながら見つける
ことができなかったのですが、
インタビューの中で、 奥様や、
長男についてコメントされていましたので、
結婚はされているようですね。
「長男」と繰り返し発言している
ことからも、お子さんも少なくとも
二人はおられるようです。^ – ^
きっと、お父さんのように優秀で
志の高い若者なのでしょうね。
伊勢崎さんが、海外に仕事に出る時は、
ご家族は心配なさるようですが、
伊勢崎さん自身は、ご家族のことを
心配はしないそうですよ。
なぜかというと、ちゃんと保険を
かけているからですね。笑
伊勢崎さんは国の代表、国連職員として、
現地にとぶことが多く、もし伊勢崎さんの
身に何かあった場合には、 1億円以上の
支払いがなされるように、外務省と交渉を
されてから行くそうです。
そういう手続きをしっかりと踏まない限りは
行かないそうです。その辺りは、家族のために
堅実にしておられるんですね。
もし万が一僕が死んでいなくなっても、
当面のお金があれば人間って生きていけるもんですから。
あんまり残すと、子供がスポイルされちゃう恐れがあるけど(笑)。
僕、親父がいなかったんですが、ちゃんと育ちましたからね(笑)。
そんなにね、親父の存在って重いものじゃないと思いますよ。だから家族のためにやりたい仕事をあきらめたことはないですね。
シエラレオネ(注 内戦前のNGO時代)にも家族全員連れてってますからね。
家族の存在は基本的には関係ないですね。引用:http://www.jinzai-bank.net/
本人の無事であることに越したことは
ありませんけどね。
音楽(楽器)を始めたきっかけ
トランペット
伊勢崎さんは、2001年にシエラレオネという国で
国連PKOの下、紛争処理を指揮していおられた時、
現場から宿舎に帰還して部下のアイルランド人が
聞いていた カノンボール(canonball)のSomethin’ELSE
という曲を聴いて、トランペットの虜になったそうです。
2003年に初めて、トランペットを手にし、そこから
猛特訓し、今ではライブを開催するほどの腕前だそうです。
トランペットを購入したきっかけというのが、
アフガニスタンで、アメリカの占領政策で、アフガン軍閥の
武装解除の責任を日本政府代表として請け負うこととなった際に、
もうこれで本当に死ぬかもしれないと思い、
トランペットを買って持って行ったそうです。
若い頃からの音楽家になりたいという夢
もこうして、晩年になってある意味でかなっている
ことを見ると、やはり人間何事もやってみるということが
大事なんですね。
まとめ
ということで、今回は伊勢崎賢治さんの
プロフィールや、現在の職業に行き着いた
経緯、仕事内容についてお伝えしました。
また家族やトランペットを始めたきっかけ
などについても触れました。
最後まで読んでくださり本当にありがとうございました。