金栗四三の経歴プロフや名前の由来!マラソンの父と呼ばれた理由【いだてん】


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皆さん、こんにちは。
毎年注目を集める大河ドラマ。
来年1月からは
『いだてん~東京オリムピック噺~』が
放送されますね!

主人公となるのは
中村勘九郎さんが演じる
金栗四三(かなくり しそう)さんと
阿部サダヲさん扮する
田畑政治(たばた まさじ)さん。

初めて日本がオリンピックに参加した時から
東京オリンピック開催までの道のりを
主人公の二人をリレーする
3部構成になっているとのこと。

今回は、「マラソンの父」と呼ばれている
金栗四三さんについてお話したいと思います。

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金栗四三ってどんな人?名前の由来や経歴プロフ

金栗四三さんは、日本人初のオリンピック選手。
種目はマラソンで「マラソンの父」
という別名も持っています。

名前の由来

金栗さんは熊本県玉名郡春富村
(現在は和水町)出身で、
男4人、女4人の8人兄弟の
7人目として生まれました。
四三という名前の由来は、
四三が産まれたときの父の年齢だそうです。

母に聞いた話なのですが、
昔は子供がたくさんいるのが
当たり前だったので
産まれる順が後に
なればなるほど名付けが
適当になっていたのだとか。

実次、又作という兄がいることが
分かっていることから、
7人目の手抜き感が否めませんね。

わたしは4人目なのですが、
いろいろ考えて名付けえてくれた
両親に感謝ですね。

プロフィール

金栗四三さんは1891年8月20日生まれ。
出身は熊本県玉名群。
玉名市名誉市民。

日本人初のオリンピック選手で
種目はマラソン。

職業は師範学校教師で、
熊本県初第教育委員長を務めます。

箱根駅伝の開催に尽力をつくし、
高地トレーニングを
日本に導入するなど
日本のマラソン界を大きく
発展させた人として
「マラソンの父」と呼ばれます。

1983年11月13日に92歳で永眠します。

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経歴

初のオリンピック選手で
日本のマラソン界を
大きく発展させた金栗四三さん。

そんな金栗四三さんの経歴を
詳しく調べてみました。

幼少期~小学生時代

幼いころは虚弱体質だったため、
母親は心配していたそうです。

しかし、母の心配をよそに
四三さんは小学校の頃に
走ることに目覚めていきます。

小学校までの道のりは片道6キロ。
往復で12キロという道のりを四三さんは
友達たちと走って通学していたのこと。
走ることの楽しさを覚えた四三さんは
足が速く、友達を待つほどだったようです。

そしてこのころから、2回吸って2回吐く
という呼吸だと苦しくならないと
気付いていたそうです。
小学生にしてすごいですよね!

この経験がオリンピックまで
繋がっていくと思うと
面白いですね。

東京高等師範学校(現・筑波大学)時代

四三さんは海兵軍学校を志しますが、
過去に患った病気のために不合格となります。

そんなときに兄に勧められて
東京高等師範学校(現・筑波大学)に
進学を決めます。

校内で行われた長距離走え大会で
3位の成績をおさめ、校長に褒められます。
その校長というのが柔道の創始者である
嘉納治五郎だったのです。

校長・嘉納治五郎の依頼により
マラソンの存在も知らず、
走った経験もないままだったが
長距離走に自信があったため
オリンピックの国内予選に
出場することを決意します。

予選に向けて、練習を重ねた結果
予選にて後続に圧倒的な差をつけて
1位でゴールテープを切ります。
このとき、普通の足袋を履いていたため
ゴール後には足袋は擦り切れ、
1ヶ月ほどまともに歩けなかったそう。

そうしてオリンピック選手としての
金栗四三さんが始まります。

選手時代

予選で1位となった金栗さんは
オリンピック出場のために
ストックホルムへ2週間かけて
同大会の短距離走選手・三島弥彦と
ともに向かいます。

移動の際は、パンと缶詰のおかずで
食つなぐ生活を余儀なくされ、
また、今のような選手村もなく
安価な素人下宿に宿泊するなど
疲労がたまる、苦難の道だったとのことです。

そして、いよいよマラソンに出場。
当日は最高気温40℃という猛暑日で
金栗さんは折り返し地点をまわったところで
レースを棄権。

沿道にあった家庭にておもてなしを受けて
休憩をします。
ストックホルムに戻ったのはレースの
翌日だったそうです。

金栗四三がストックホルムで負けた詳しい理由はこちら

大会事務局はまさか翌日に走者が
戻ってくると思わなかったため、
金栗さんの前にゴールしたロシア人選手に
慰労賞を渡していたとのこと。
以来、金栗さんは消えた日本人ランナーとして
ストックホルムで名が知られるようになります。

この結果を受けて、海外の選手との差を
痛感した金栗さんは本格的に練習を
励むようになります。

しかし、選手としてピークを迎える
ベルリン大会は第一次世界大戦により中止、
満を持して出場したアントワープ大会は
16位という結果で終わり、
パリ大会では途中棄権という結果でした。

選手引退後

選手としては、国際大会では
思うような成績は残せなかったものの
練習を重ねる過程で
走りやすい履物の開発を考え始め、
足袋の改良を重ねます。

ストックホルム大会での棄権の
原因が疲労にあると考えた
金栗さんはゴム底に改良した
『金栗足袋』を開発します。
そしてこの『金栗足袋』を
履いたランナーたちが
続々と国際大会で優勝します。

また、駅伝を普及させたのも金栗さんです。
小学校の運動会の審判として参加した際に
「海外に長距離走で挑戦できないか…?」
と考え始めます。

それがアメリカ大陸横断駅伝(案)でした。
その予選会として各校に呼びかたのが
東京箱根間往復大学駅伝競走の始まりです。

結局アメリカ大陸横断駅伝は、
行われず仕舞いでしたが
本来予選であった箱根駅伝は
今も続けられています。

また、最優秀選手には金栗三四杯が
贈られているそうですよ。

このように金栗さんは
選手としてだけではなく、
多方面から陸上競技を支え、
発展させています。

そして、不滅の記録の持ち主でもあります。
金栗さんが出場したストックホルム大会から
五十五年後に思わぬ形で世界から注目を
浴びることになります。

ストックホルム大会で棄権した
金栗さんですが、
大会事務局側の記録では
「競技中に失踪し行方不明」と
記されていたのです。

スウェーデンオリンピック協会は
五十五周年記念式典を開催時に
金栗さんを招待します。

そして、金栗さんは五十四年越しに
ゴールテープを切ったのです。
その記録は五十四年八カ月
五時間三十二分二十秒三。
このゴールでストックホルム大会の
全競技が終了しました。

この記録はオリンピック史上
最も遅い記録であり、
今後も破られることはないでしょう。

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マラソンの父と呼ばれる理由


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金栗さんは日本マラソン界における
「マラソンの父」と呼ばれています。

経歴を読んだだけでも納得でしたよね!
大きな理由としては

・日本人初のオリンピック選手
・箱根駅伝の生みの親
・オリンピックの不滅の記録保持者
・高地トレーニングなどの導入

が挙げられるようです。

また、金栗さんの残した言葉に
『気力・体力・努力』
という言葉があります。

まさに金栗さんを表すかのような
言葉ですよね!

まとめ

金栗三四さん、すごい経歴の持ち主でしたね!
近代の日本を描いた大河ドラマは
33年ぶりとのことですが
見ごたえがありそうです。

1月の放送日が楽しみですね!

大河ドラマにクドカンが抜擢されるのにも
注目です!

なぜ大河ドラマにクドカン宮藤官九郎が抜擢?

最後まで読んでいただき
ありがとうございました。

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